早野先生かく語りき
これは、東京大学理学系研究科物理専攻長の早野龍五教授(はやのりゅうご、@hayano)が、イタリアの高校生の質問に答えたインタビューを、朝日新聞科学医療部・小宮山亮磨記者が趣味で翻訳したものを、両氏の了解を得てここに掲載するものです。
Q1.自己紹介をお願いします
1952年 岐阜生まれ
1974年 学士号(物理学) 東京大学
1979年 博士号(物理学) 東京大学
(論文のための研究はほとんどカナダのバンクーバーで行い、東京で論文を書きました)
1979年 助手 東京大学
1982年 助教授 高エネルギー物理学研究所
1986年 助教授 東京大学
1997年 教授 東京大学
受賞
1998年 井上学術賞=シグマハイパー核と反陽子ヘリウム原子の発見
2008年 仁科記念賞(日本でもっとも権威ある物理学の賞)=反陽子ヘリウム原子の研究
Q2.どうやって、またどうして物理学を学ぼうと決めたんですか? 学生時代の一番の思い出は?
5歳の誕生日の少し前、僕はバイオリンを習い始めました。一生懸命練習して、けっこう上手になりました。僕のバイオリンの先生だった鈴木鎮一博士は1964年、アメリカ全土をまわるツアーに、ほかの9人と一緒に僕を連れて行きました。びっくりするくらいの成功でした。でも、プロのバイオリニストになろうと真剣に考えたことはありませんでした。
僕の父は医学部の教授でした。母も医学部を卒業しています(結婚後は家庭にとどまることを選びましたが)。だから僕は子どものころ、きわめて自然な形で、科学に惹かれていきました。科学に関係したあらゆる種類の本を読みました。ものを分解するのも好きでした(そしてときどき組み立て直すのに失敗して、両親をたいへん困らせました)。
学校では数学と物理学が大好きでした。ほんの少しの原則にもとづいて問題を理解し、解決することができたからです。生徒に暗記を強いるだけのほかの科目は、あまり大切だと思っていませんでした。
18歳で将来の選択に迫られたとき、僕は医学部に行くか理学部に行くか、まだ決めかねていました。基礎科学を選ぶように助言をくれたのは父です。彼はこういいました。「おまえの夢が(患者に接して)医学を学ぶことじゃなくて研究者になることなら、どうして医師免許をとるために余分な年月を無駄にしなくちゃいけないんだ?」
父を見ていたので、研究をして学生を教えつつ同時に患者をみるのがいかに大変か、僕にはわかっていました。子どものころ、家で父を見たことはめったにありません。父を尊敬してはいましたが、僕は少し違う人生を送りたかったのです。恋人(10年後には愛する妻になりました)も同じ意見でした。だから僕は医学より科学を選びました。
物理学のとりこになったのは東京大学に入ってからです。高校で学んだ力学や電磁気学が「近代的」でないことは知っていたので、量子力学や相対論に接することにゾクゾクしました(「先端的」なテーマに取り組めるようになるまでに、これから学ばなければいけないことがどれだけたくさんあるかを理解して、ひるみもしましたが)。
4年生の時、恩師の山崎敏光教授に出会いました(彼は後に同僚になり、友達にもなりました)。彼のグループは当時、小型の円形加速器で研究をしていました。これは昼間は医療目的に使われていたのですが、夜は僕たち物理学者が自由に使えました。敏光先生自身はあまり頻繁には研究室にいませんでした。彼がいないのをいいことに、僕は加速器の使い方、そして修理の仕方も学びました。研究室には小さなコンピューターもありました。初めての手頃な「ミニ」コンピューターのひとつで、本棚くらいの大きさがあり、メモリーはわずか0.12メガバイト、ハードディスクはなく(紙と磁気テープドライブだけでした)、10万ユーロくらいはしたはず―これが70年代初期の最新機種です。このマシンで僕はプログラミングを覚え、円形加速器からのデータを分析するプログラムをいくつか書きました。こうしたすべてのことがとても刺激的で、僕は文字どおり研究室に「住んで」いました。
1974年、僕は博士課程の先生に敏光先生を選びました(というより、彼が僕を学生として受け入れてくれたんですね)。でも院生としての初日に彼のオフィスに行ったところ、先生がそこにいなかったのです。オフィスは彼ではなく、ドイツから来た教授に占領されていました。この人がポール・キーエンレ教授でして、僕が思うに、やはりこのインタビューに貢献してくれています(彼も同僚になり、友達になりました)。70年代初期の東京で身の回りに外国人が毎日いるというのは、ふつうのことではありません。しかも一時的とはいえ、ドイツ人の物理学教授が指導者になるというのは、前代未聞のできごとでした。グループにいたほかの年上の学生たちがポールと話すのにわりと気後れしていたので、彼といちばん会話をしていたのは僕でした。物理学で彼と何かした覚えはあまりないのですが、一緒にバーによく繰り出したり、楽しいことをたくさんしました。
この年の末、敏光先生は彼が実験をしているバークレーに来るよう僕に言いました。まさに願ったりかなったり。僕の着いた直後、すごいことが起きました。みんなあちこちを駆け回り、いたるところで熱い議論をかわしていました。この日、新しい粒子(プサイ粒子)がSLAC(スタンフォード線形加速器センター)で発見されました。素粒子物理学の「11月ジェイプサイ中間子革命」として、歴史的に知られている日です。まだ経験も少なく、無知な大学院1年生だったので、みんなが興奮している理由を十分には理解できませんでしたが、何か大切なこと―ノーベル賞に値すること―が見つかったのだ、とはわかりました。僕は運良く、その場面の一部になることができたのです。
11月革命からまもなく、敏光先生は新型で強力な「TRIUMF」円形加速器が完成間近だったカナダのバンクーバーに移りました。僕も来るよう彼に言われ、カリフォルニアで小さなクルマを買ってカナダに向かいました。敏光先生とぼくは加速器から最初のビームが出るのを何日も待ちましたが、ダメでした。半年後に敏光先生が東京に帰るまで、なしとげられたことはあまりありませんが、僕は博士論文を仕上げるまでの残る4年のうちの大部分をバンクーバーで過ごしました。僕はTRIUMF加速器のデータを使って学位をとった最初の学生です。
結局のところ、すばらしい先生に恵まれたのはきわめて幸運でした。また学者人生の駆け出しに、物理研究の国際的な環境に触れられたのも幸運でした。
Q3.これまでにどんな苦難がありましたか? 科学者としてもっとも興奮したできごとは?
苦難はたくさんありますが、僕は楽観主義なので忘れます。いつもそうです。
もちろん研究がうまく進まないときもありました。落ち込みます(少しだけ)、そして思います。「ああ、僕は選択を誤ったにちがいない。もし医者になっていたら、もっと意味ある人生だったはず。発見ができない物理学者なんて、何の役に立つんだよ……」と、そんなときです。
いまでは苦難はおもに金銭的なものです。実験はお金が必要で、僕たちがやる実験は固体物理とか量子光学といった物理のほかの分野より、さらにお金がかかりがちです。予算をもらうには、3年から5年ごとに研究の提案書を書いて応募し、審査を受け、面接をこなし、などなどをする必要があります。競争は厳しいです。負ければチームにとって大打撃。お金がなければ研究成果は出せず、見せる成果がなければ、次の提案でも負ける可能性が高くなる(僕たちの業界では「成果を出せ、さもなくば滅びる」との原則が広く知られています)。運のいいことに、僕は負のスパイラルにはまったことはないですが、これはまさに悪夢です。
では興奮したできごとについて。僕は運がいいので、「セレンディピティ的な」発見をいくつかしています。まったく期待していなかったものを見つけることです。最初のセレンディピティがどんなだったか、かいつまんでお話しします。
バンクーバーにいて、論文のテーマ探しにもがいていたときのことでした。指導役の敏光先生がいるのは、はるか遠く東京です。当時はインターネットもなく、国際電話も高すぎて使えませんでした。連絡手段の国際郵便は、カナダの郵便局職員が(かなり頻繁に)ストライキを起こすので、途切れることがしょっちゅうでした。
これから少し技術的な話をしますが、がまんして聞いてください。
敏光先生はTRIUMFで「μSR」(ミュオン・スピン・ローテーション)という新しい分野を切り開いた人です。これは加速器でつくったミュオン(電子の兄弟分で、電子より重い粒子)を使って、物質の磁性的な特性を調べる強力な手法です。この手法では、ミュオンビームの向きと垂直に磁場をかけます。もともとはミュオンビームの向きと平行だったミュオンの「スピン」の向きは、磁場の中ですりこぎ運動をします。ミュオンスピンのすりこぎ頻度を測定すれば、ミュオンをとらえた物質の内部構造をくわしく知ることができます。
いくつかの理由から(とはいってもこれから説明する発見を狙ったためではまったくありません)、僕はミュオンビームの向きに垂直ではなく、平行に磁場をかけるための比較的な単純なしくみをつくりました(こうすればミュオンはすりこぎ運動をしないはずです)。
でも、磁場をかけず(検出器のテストのためだけに)データをとってみたら、スピンがゆっくりとすりこぎをしているようなのです。僕はびっくりしました―すりこぎの回数は通常のμSRほど多くありません―だいたい半回転でした。データを東京に送ると、先生はそれを、学科で理論面での共同研究者だった久保教授に見せました。聞いたところでは、久保教授はものすごく興奮したそうです。
久保教授はかつて、「ゼロ場」でのスピンの振る舞いという問題に取り組んでいたというのです(彼の場合、ミュオンのスピンではなく原子核のスピンでした)。ですが彼は、実験的に確かめることが絶対にできない純粋な理論上の問題だと考えて、諦めていました(そしてほぼ忘れかけていました)。
東京から届いた手紙には、「じれったい。スピンの回転が180度以上あるか、確かめることはできるか?」とありました。すぐにやってみて、わかりました。まさに久保教授が予測したとおり、スピンはほぼ1回転していたのです。この時はとても興奮しました。まったくの偶然から、僕は「ゼロ場ミュオンスピン緩和法」(これは論文で使った用語です)を発明したのです。この発見で、学位は簡単にとれました。1979年の「フィジカルレビュー」誌に掲載されたぼくの論文は「古典」になり、今もなお、僕が書いたうちでもっとも読まれた論文のひとつです。「ゼロ場」法は今、たとえば高温超伝導物質の研究において、標準的なツールになっています。
Q4.いまは何をしているんですか?
「エキゾチック原子」の研究をしています。
ふつうの原子では、電子が原子核の周りをまわっています。もし原子核にとらわれているのが反陽子(陽子の反粒子で、電荷は負だけど重さは陽子と同じ)のように負の電荷を持った粒子なら、僕たちはそれを「エキゾチック原子」と呼んでいます。
エキゾチック原子は自然界には存在しません。加速器を使って人工的に合成する必要があります。宇宙をかたちづくる材料でもないのに、どうしてそんなものを研究するの、と不思議に思うかもしれませんね。いい質問です。
「原子分光法」という技術があって、これは原子一つひとつのエネルギーレベルを「原子状態遷移」(原子が光子を放出したり吸収したりすること)を観察することによって調べる手法で、ふつうの原子を研究するために確立されたものですが、この技術がエキゾチック原子にも応用できることがわかっています(簡単に聞こえますが、実際には、技術の開発には何年もかかりました)。これを使って僕たちが得たデータを使えば、物質と反物質の対称性のように、自然界の基礎的な対称性を調べることができます。核心となる問題のひとつは、「陽子の質量は反陽子と完全に同じだろうか?」というものです。
これが僕の主な活動のひとつで、スイスにあるCERN(欧州原子核研究機関)で行われているものです。僕のチーム、名付けて〝ASACUSA〟は、反陽子ヘリウム(ふつうのヘリウム原子にある二つの電子のうち一つが反陽子に置きかわったもの)のレーザー分光法に取り組み、反陽子と陽子の質量にほとんど違いがないことを測定しました。ちなみに、反陽子ヘリウム原子も、ぼくたちの「セレンディピティ的」発見のもう一つの例です。
CERNで僕たちは、反陽子の質量が陽子の質量と数字10桁まで一致することを確かめました。僕たちが測定した反陽子の質量は、これまでもっとも正確に測定された陽子の質量とともに、いま国際的に使われている「基礎物理定数」の決定に使われるようになっています。これは近代物理学の土台であり、国際単位系SIの基礎でもあります。この研究で僕は先日、栄誉ある仁科記念賞を受賞しました。
Q5.物理学で次の発見は何だと思いますか?
ヒッグス粒子です。
これは重要な発見ですが、びっくり仰天というほどのものでもありません。というのもヒッグスはすでに、素粒子粒理学のいわゆる「標準模型」のなかで、欠かせない要素になっているからです。その存在を本気で疑っている物理学者はほとんどいません。
もっとおもしろいのは「超対称性」粒子の発見でしょう。理論物理学者の多くは、すでに知られている粒子にはそれぞれの「超対称性」パートナーがいるはずだと考えています。たとえば、電子(エレクトロン)のパートナーには名付けてセレクトロン、フォトン(光子)にはフォティーノ、などなど。こうしたパートナー粒子のうち一つでも見つかれば、自然界に対するぼくたちの見方はがらりと変わります。CERNにある巨大粒子加速器(LHC)は、存在するはずのこうした粒子を発見するのに十分な力を持っていると考えられています。
また、もしぼくたちのASACUSAでの実験で、反陽子の質量が陽子の質量とちがうとわかれば、その違いがどんなに小さくても、ノーベル賞ものの発見になります(たしかにこれは大ばくちだと僕も思います)。
Q6.過去最高の発見は何だと思いますか? いちばん好きな科学者は?
ビッグバンです。
この世はいかにつくられ、我々はいかにして存在するにいたったのか。これは根本的な問題で、神話や宗教の範疇をはるかに超えたものです。物理学者と天文学者はいまや、我々の宇宙が137億年前の爆発でつくられたこと、また高温の火の玉から宇宙がどのように進化してきたのか理解するために、基礎的な物理法則が応用できる(ある程度まで、ですが…これはまだ進歩の途上です)ことを、かなりの証拠をもって明らかにしています。宇宙の理解に必須の「一般相対論」をとなえたアインシュタインが、宇宙は永久に変わらないはずだと(美的理由から)強く信じていたのは、興味深いことです。彼は間違っていました。このことは、実験と観察がいかにだいじかを改めて示すものです。
ぼくのいちばん好きな科学者? 一人ではなく大勢ですが(科学の歴史にはとてもたくさんの偉大な知性―巨人たち―がいます)、一人のイタリア人、そして一人の日本人の名を挙げさせてください。
エンリコ・フェルミ。彼の教科書(「放射線の量子論」と「原子核物理学」)は、学生だった僕にとって、とても魅力的でした。実験物理と理論物理の両面で優れていた彼のようになりたいと、僕は願ったものです。
小柴昌俊、「カミオカンデ」を使った超新星ニュートリノの検出で2002年にノーベル賞を受賞しました。僕は東京での学部生時代から彼のことを知っていて、彼が僕たちにカミオカンデの建設計画を話したときのことを、いまもはっきりと覚えています。のちに僕は学科で彼の同僚となり、ノーベル賞が発表されたときに学部で開かれた記者会見に出席しました。彼の活力と洞察力には、いつも感心するばかりです。
Q7.科学研究での協力、とくに異なる国々の研究者による協力は、どれだけだいじでしょうか?
僕の研究分野は加速器に多くを頼っているので、国際協力はなくてはならないものです。たとえば、僕が新しい実験のアイデアを思いついたけど、その実験ができる加速器が日本にはない、というとき、ふさわしいマシンのあるところなら、世界中のどこだろうとぼくは喜んで出かけます。こういう考え方は恩師の山崎敏光先生から学んだものです。だから僕の学生もドイツ、米国、スイス(そしてもちろん日本)と各国にいます。いまいる学生の一人は中国出身ですが、イタリアのフラスカーティで実験に取り組んでいます。科学に国境はありません。
国際協力に取り組むとき、コミュニケーションの手段は英語です。たとえば、ドイツでおこなった実験の記録ノート(分厚くて丈夫なノートに、実験でやったこと、学んだこと、わかったことなど、あらゆることを書き留めます)の最初のページには、こう書いてあります。「No German, No Japanese.(ドイツ語禁止、日本語禁止)」
Q8.科学者の定義とは? 才能や直感、研究はこの仕事にどう影響しますか?
科学者とは、真実を見つけようという情熱があり、(けんめいに働くことを通じた)修行をつんでいて、問題に挑戦するための手段を身につけた人々です。僕は実験物理学者として、自然界の秘密を明らかにすることのできる実験の力と重要性を強く信じています。僕たちを突き動かすのは好奇心です。研究は自然とついてきます。僕たちはしばしば障害にぶつかり、それを克服しようともがきます。研究へのやる気がわき、新しいことを学ぶのはそういうときです。
物理学や数学などには教科書がありますが、優秀で成功する科学者になるためのマニュアルはありません。それは簡単に教えられるようなものではないのです。でもそれは、ある意味では、師匠から「受け継ぐ」ことができるものです。
師匠のクローンになるべきだと言いたいのではありません。物理学において、独自のことをするのは大切です。でも、師匠と出会い、その人が(うまいことに)世界クラスの科学者だったら、そういう世界クラスの科学者になるためには何が必要か、なぜその人がすごいのか、その人がどんなことをしてきたか(あるいは何をしてこなかったか)などなど、数年の間は観察を続けられます。師匠は追いかけるべき基準になるのです。世界クラスの科学者になるためには、あなたはいつか師匠を上回らなければなりませんから。
Q9.趣味、好きなことは何ですか? おすすめの本は?
科学者のいいところは、仕事と趣味、日々の暮らしにはっきりした区別がないことです。物理学はいつも頭のどこかにあります。ぼくたち物理学者は日々、大好きなことをしてお金をもらっています。最高、でしょ?
あえて言うなら、ガジェット好きです。新しいおもちゃ、コンピューター、デジカメなどなど、何でも興味があります。でもそれは、研究でガジェットをたくさん使うからです。これが趣味だとは、僕は思いません。
好きなことは音楽(バイオリン)です(物理学以外では)、と言えたらいいなと思うのですが、でもあいにく僕はいま楽器がひけません(楽器演奏がきわめてはばかられる東京都心に住んでいるので)。この楽しみは退職後にとっておきます。
僕は観劇、なかでも日本の伝統劇「歌舞伎」の常連です。大学では以前、「歌舞伎鑑賞法」を教えていて、理学部の学生たちを毎月、観劇に連れていっていました。とても人気のある講座でした。
うーん、本ですか。ちょっと考えます……。「世界でもっとも美しい10の科学実験」(ロバート・P・クリース著)はどうでしょう? これを選んだのはぼくが実験物理学をやっているからです。よく書けた本で、高校生でも読めると思います。
もう1冊あげられるなら、日本人が書いた本をおすすめします。「クオーク 素粒子物理の最前線」。著者の南部陽一郎博士は2008年のノーベル賞受賞者。彼が東大で博士号をとった1952年は、僕が生まれた年です。
Q10.世界経済危機の時代にあって、将来の研究はどうなると思いますか?
科学は僕たちの未来をかたちづくります。政府はいまではこのことを理解しているようで、経済的状況が厳しくても、ふつうは研究予算をばっさり削ったりしません。とはいえ政府の支援を当然だと思っていいわけではありません。僕たち科学者は社会に対し、自分たちが何をしているのか、なぜそれをやっているのかを説明する義務がありますし、才能ある若い人たちに魅力を伝えられるように、できることはすべてやらなければなりません。
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